05・伊予鉄道と、住友
松山市の、坊ちゃん列車とよばれた、伊予鉄道は、
明治21年 9月23日落成。 28日より、営業運転。
蒸気機関車は、別子銅山より早く、同じ、横浜の刺賀商会に、明治20年11月 7日に注文している。
1号車・2号車の、2両で ¥9,700
ハンブルグ
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神戸 M21・6月
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三津浜 レール・付属品 7/2 機関車 8/9 着
↓ (牛車)
松山駅 (現在の松山市駅)
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組立完了が、9/18と、あります。
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明治24年 5/8に、3号車・4号車を刺賀商会に注文しています。
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M25年 3月上旬 松山着
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5月上旬 組立完了
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注文してから、松山で組立完了まで、当時は1年近くかかっていたようです。
3号車のシリンダーには、No・2585の刻印が有ります。
これは、明治26年 5月に開業した、別子鉱山鉄道・別子1号が、No・2682ですから、
クラウスの工場は、年間100台位,大小の蒸気機関車を製作していたことになります。
住友とは、開業前から係わりがあります。
その後も、明治32年の大恐慌の時株式の半数近くを持っていた前社長の古畑寅蔵の第79銀行で
取り付け騒ぎが起き、担保として差し出された伊予鉄の株は暴落することになります。
伊予鉄では古畑の持ち株で競売に掛けられたものを買い受け、住友家をはじめとする
地元有力者に所有を引き受けてもらいようやく危機を脱した。(走れ、坊ちゃん列車)
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機関車は日本に到着して組み立てたが、客車などは組み立てたまま大きな箱に入れて送ってきた。
機関士や機関助手もドイツからやってきた。慣れないうちは、手取り足とりで運転の仕方を
日本人に教えなければならないから、機械と人はセットなのである。
無事陸揚げされた我輩は、ドイツ人によって組み立てられ、松山の地にその勇姿を現した。(走れ、坊ちゃん列車)
別子鉱山鉄道も、ドイツ人のルイ・ガラントによって教えられている。
別子開抗250年史話には、”開通当初は、ドイツ人機関手 ルイ・ガラント 1名を雇用して運転させた”とある。
(明治26年当時・ルイ・ガラントの月給は200円だったとある。
現在に換算すると。 月給 450万円。 何年間、指導にあたっていたのかは、判りませんが、
”言葉が通じなくて、上手く教えれなくて、気短になりスパナで殴りながら指導した” なんて、逸話が残されています。)
それにしても、別子の機関車は、何処に陸揚げされたか記述が無い。
これだけの大事業だから、どこかに記録や、写真があっても良さそうな物である。